すまろ創刊号より


現代神道実践の栞(其の一)

序  説

 我々自慢堂は「現代神道実践の栞」と題して、神道の「美味しい部分」を読者の皆さんに供し、より実践的かつ実用的な神道の普及に勤めたい所存である。

 そもそも「神道」というモノが、「我が国固有の、神を祭る道」であるならば、それは本来生活に密着した実践的な知識の集積であったに違いない。日本人の生活意識や環境は太古から比べれば天と地ほどの変化を遂げたであろう、だがその日本の文化を担う日本人に、意識の差こそあれ、肉体的な特徴は色濃く伝達されている。その事を考えた時に、日本人の血脈に悠々と記憶される神道の本質は、今、我が自慢堂の本懐によって蘇るのである。

 この実践の栞を修得される机下に、この文をお届けできる事は、神慮の成す技と心得、畏敬を持って筆を進めさせていただく。願わくば、百偏でも千偏でもご通読戴き、その肉の上で現代神道を体現して戴ければ無窮の慶びである。

「大祓詞」概略

 我々有識の立場から「使える神道」を考えた時に、まず一番最初に来るのが「大祓詞」であろう。正確に云うならば「六月晦大祓」として、かの延喜式の巻八に掲載されているソレを、明治維新以後数カ所訂正し使用しているモノであり、別名「中臣祓」と呼んでいる。神道を他人に伝えるときに周知の事実として「お祓い」という一大特長がある。神道→神社→神主→お祓いという図式がイメージとして一般化していて、「神道」といえば「お祓いをしてもらう」ことぐらいに認識されているのだ。それくらいに神道では「祓う」という行為がポピュラーな呪法として流布している。実は神道を呪法という一面から見た場合、これは非常に正しい理解である。実際に神道の呪法のほとんどが祓いによって始まり同時に完結しているのだ。

 「大祓詞」は、その「祓い」呪法のもっとも完成された形態で、古代から上は天皇から下は一般庶民までが実行した祭祀呪法である。その呪力は現代社会になっても、まったく衰えることなく効力を発揮している。それは実際の神道の現場である神社で、今現在この「大祓詞」を汎用祝詞として使用していることからも想像がつく。その汎用性は真言密教の般若心経に匹敵していると云えば解りやすいだろうか。

 「大祓ひ」は先に記した延喜式の四時祭式に、「六月晦日大祓 十二月准此」(六月の晦日の大祓ひ 十二月は此に准ずる)とある通りに、一年のうちで二回、六月と十二月の晦日に親王以下百官が朱雀門前に参集して半年間の「罪・咎・穢」を祓いやる行事である。 ここで云う「罪・咎・穢」というのは祓いの対象となる災厄のことで、それぞれを説明すると、「罪」(つみ)と云うのは、意識して犯した事柄に原因する災厄。「咎」(とが)というのは、無意識のうちに犯した事柄に原因する災厄。「穢」(けがれ)というのは、罪や咎によって発生した気の枯れ。もしくは、罪や咎の原因となる気の枯れ。のことである。

 

「大祓詞」本文

    大祓詞(中臣祓)

 高天原に 神留り坐す 皇親 神漏岐 神漏美の 命以ちて 八百萬神等を 神集へに集へ賜ひ 神議りに 議り賜ひて 我が 皇御孫命は 豊葦原の 水穂國を 安國と 平けく 知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし 國中に 荒振る 神等をば 神問はしに 問はし賜ひ 神掃ひに 掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立 草の片葉をも 語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の 千別きに 千別きて 天降し 依さし奉りき 此く 依さし奉りし 四方の國中と 大倭日高見國を 安國と 定め奉りて下つ磐根に 宮柱 太敷き立て 高天原に 千木高知りて 皇御孫命の 端の御殿 仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と 隠り坐して 安國と平けく 知ろし食さむ 國中に 成り出でむ 天の益人等が 過ち犯しけむ 種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 許許太久の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を 本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に 置き足らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に 取り辟きて天つ祝詞の 太祝詞事を 宣れ

 此く宣らば 天つ神は 天の磐門を 押し開きて 天の八重雲を 伊頭の千別きに 千別きて 聞こし食さむ 國つ神は 高山の末 短山の末に 上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を かき別けて 聞こし食さむ 此く 聞こし食してば 罪と言ふ罪は 在らじと 科戸の風の 天の八重雲を 吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の 吹き払う事の如く 大津邊に居る 大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に 押し放つ事の如く 彼方の 繁木が本を 焼鎌の 敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ 清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐々那太理に 落ち多岐つ 速川の瀬に坐す 瀬織津比賣と 言ふ神 大海原に 持ち出でなむ 此く 持ち出で往なば 荒潮の 潮の 八百道の 八潮道の 潮の八百會に坐す 速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す 気吹戸主と 言ふ神 根國 底國に 気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す 速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪という罪は 在らじと 祓へ給へ 清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと 恐み 恐みも 白す

 

「大祓詞」対訳

    大祓詞(中臣祓)

 遠い昔、神代の頃に、神々が住まわれる高天原という場所を主配される男神と女神のご命令で、沢山の神々をお集めになって会議をなされました。*1

 議論に議論を重ねたその会議の結果、「我が皇御孫の命*2は、豊葦原の水穂の国を安穏な国として平和に統治しなさい。」と云う言葉をもって、我が国の統治権を皇御孫の命に御委譲されました。

 このように御委譲された国の中で有力かつ従わない神々一柱づつに「どういうわけで帰順しないのか」と質問されて、なおかつ応じない神々はことごとく一掃されてしまわれました。その勢いに言葉をかえして順わなかった盤石や木の切株・草の片葉までもが言葉を云わぬようなってしまいました。

 さてこのよう平定されてから皇御孫の命のご一行は、天の磐座を水穂の国に向けて解き放って中空に幾重にも重畳している雲を散り散りに別けてしまうほどの勢いで天降っていかれ、水穂の国を統治なさいました。

 このように御委譲された四方の国の中央の大倭日高見の国を安穏な国と定められ、地下なる磐石のあたりにまで太い宮柱を埋め立てて、大空の高天原にもとどくような千木を高くした皇御孫の命の瑞々しい宮殿をお造りになられました。

 そして皇御孫の命は、この宮殿に常にお籠もりになられて天と日の神々と共に、この国を安寧で平和な国として統治されました。

 以上のような経緯で統治され安穏で平和な国の中に自然に発生した(我々)天の益人が、過って犯してしまう様々の罪事には天つ罪*3と国つ罪*4とそしてその他多数の罪があるでしょう。

 

「大祓詞」解説

 「大祓詞」を読んだときにでてくる最大の疑問点は、「天津祝詞の太祝詞事」である。実際に読んでいって貰えばわかるが、「大祓詞」は前後二段にわけることができる。それは「天津祝詞の太祝詞事」を「のれ」というところまでと「かくのらば」からである。現代的な文法の解釈でいくと、この段の切れ目に何かしら別の祝詞(天津祝詞)の奏上があったり、別の呪術的動作があったように感じられる。

 じつは、ここのところには大先学らも諸説があり現在に至るまで問題となっているのである。

 もっともこの「天津祝詞の太祝詞」という語は「大祓詞」だけに出てくるのではなく、延喜式巻八でも鎮火祭祝詞・道饗祭祝詞などにもでてくるが、それぞれは特定の祝詞を指しているのではなく修飾語だったり、前後の語を指していたりするのである。それなのに、ただ「大祓詞」のみが問題とされているのは「事」という語と辞句の用例、祓ひという行事の内容から想定しての疑問である。

 ここらあたりの先学の説をまとめたものが著名な河野省三博士の「天津祝詞太諄考」(昭和十五年十二月刊「國學院大學紀要」第二巻)にあり、次の三種に大別してある。

 

一、大祓詞(中臣祓詞)そのものであるという説

二、上文の天津金木という所から八針に取砕きてまでを指すという一部分説

三、全く別の祝詞であって、一種の神呪であるという説(これには今別に伝わっているという意見と、今は伝わっているか否かわからないという見解がある)

 

 先学の大勢は第一説をとっていて、賀茂真淵・本居宣長・伴信友・鈴木重胤・岡熊臣など、著名な国学者が名前を連ねている。先の河野省三博士も第一説をとられるが、第三説の否定をさけている立場である。平田篤胤や大国隆正・山崎闇斎などは第三説で、天津祝詞にあたる呪言として「朝野群載」に占卜の兆として伝わっている「トホカミエミタメ」や「旧事紀」に伝わる「ヒフミヨイムナヤココノタリヤ」云々の語を当てている。

 特に前述の「トホカミエミタメ」は、「大祓ひ」祭祀において最重要の役割を担う中臣氏と卜部氏の祖神にあたる天児屋命を卜占の場では「太詔戸命」(フトノリトノミコト)と神名をしているらしいことからも注目されている。

 なお、この辺りの大きなヒントになりそうな事例が現存の宮中大祓祭祀にある。

 そもそも「大祓」という行事は、まず天皇に中臣が御祓麻を東西文部が祓刀を奉り祓詞を読む。次に百官男女が祓所に参集し解除を行う。という二段階にわたって行われたものであったらしい。このことから考えて、天皇に奏上するのは中臣が担当し、親王以下百官の祓詞は卜部氏が担当したのかもしれない。また祝詞の意味から読みとるならば、「大祓詞」そのものは卜部氏が読み、その「間」の「天津祝詞の太祝詞事」を中臣氏が行ったとも推測できる。

 何にしても、後に中臣氏が衰退し卜部氏が有力化していく課程で、現状の神社神道の基礎となった吉田神道は卜部神道とも呼ばれている。

「大祓詞」を基本中の基本とする理由はここにあったのかもしれない。

 


HOME  BACK